2015年09月25日

待たねばなら


「ご声援、ありがとうござる」
 芝居ごころがあるだけに、次郎吉の応答はもっともらしい。調査がすむと実行だが、雨の日だと屋根がすべる、月が明るいと見つかりやすい。天候にも注意する。
 侵入の前には、その近所の常夜灯の油をへらしておく。逃走の時に、ちょうど油がきれ消えるようにしておくのだ。
 また、道すじの三カ所ほどに、火の用心のチョウチンと、拍子木とをかくしておく。いつでもそれを持ち、夜回りに化けられる。夜道を歩くには、夜回り姿が最もいい。怪しまれないし、夜回りが金を持っているわけなどないから、すれちがいざま浪人者に切りつけられる心配も
ない。
 このような準備があるからこそ、落ち着いて仕事ができるのだ。逃走の手はずなしだったら、不安で気が散り失敗しかねない。
 しかし、思いがけぬ不運も、ないことはない。屋敷内を追われ、ひらりと塀の外へ出たはいいが、そこをたまたま目明しが通りがかっていた場合など。これはもう逃げる以外にない。目明しは|呼《よび》|子《こ》を吹きながら追ってくる。その音を聞きつけ、加勢が出現する
かもしれない。だが、かねて用意の細工によって、あたりの常夜灯が消えはじめる。闇になればしめたものだ。次郎吉はふところから呼子を出して吹く。そして、自分も十手をふりまわし、戻って目明しにあう。
「おい、あっちへ行ったようだぞ。はさみうちにしよう。むこうへ回ってくれ」
 相手はまんまとひっかかる。変だなと気づいて戻っても、その一瞬のうちに次郎吉の姿は消えている。そばの武家屋敷の塀を越え、なかにかくれればいいのだ。町奉行所の配下の者には手が出せない。目明しが門に回り、賊が侵入したと注意することはできるが、そのすきにゆう
ゆう逃げられる。
 万一にそなえ、次郎吉は各所のお寺の屋根裏に、|飛脚《ひきゃく》の服装をかくしておく。数人の目明しに追われ、自宅へ帰れそうにない場合、ひとまずそこに逃げこむのだ。ここも町奉行所の手がとどかない。追手はまわりをかため、寺社奉行の許可か応援をぬ

 そのあいだに次郎吉は変装し、暗いうちにそとへ飛び出し、かけだすのだ。大名家が国もとの藩との定期連絡に使う、大名飛脚の姿になっている。そのための手形も盗んで入手してある。どこの関所も通過できる。文箱のなかを見せろなどと強要されることもない。盗んだ金が入
っているのだが。
 さらにあとを追われたとしても、江戸から一歩そとへ出れば、またも目明しは手が出せない。江戸のそとは代官の支配下で、それは勘定奉行の管轄。ねずみ小僧が逃げたらしいと、町奉行から勘定奉行、そして代官にまで通達がとどくには、けっこう日時がかかる。そのころには
、次郎吉は江戸に舞い戻っているというわけ。
 多くの大名屋敷のなかには、警備の厳重なのもある。邸内にひそんでいるところを、腕のたちそうな家臣に発見されることもある。しかし、次郎吉は平然と言うのだ。
「じつは、将軍直属のお庭番、|隠《おん》|密《みつ》なのです。この家に不穏な動きがあるらしいと、わたしが派遣された。しかし、隠密に証明書などあるわけがない。侵入者として切られても文句は言えない。だが、わたしを殺しても、また、つぎの隠密が派遣されるわけで
、きりがないことでござるぞ」



Posted by 清風伴明月 at 11:58│Comments(0)
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